武士道についての認識のずれ ———武士道を中心にして各国の認識を対比して論じる
序論 子供の時から、武士道に関する脚本と映画とテレビに深い興味を持っていた。特に、黒沢明の映画『七人の侍』と『影武者』が大好きだった。それらの作品に徹底的に貫く武士道精神に感動させられた。大学に入って、日本語を勉強することになった。日本語を習うことが武士道の精神を理解するには助けがあると思う。いろんな資料を調べて、武士道の形成と発展、そして、武士道の精神は日本の発展及び日本人への影響が大きかったことが分かった。しかし、私達はその武士道の精神についての理解はまだ全面的ではない、武士道についての認識にずれがあると思う。 人々が理解していた武士道は新渡戸稲造の書いた『武士道』からの影響がもっとも大きいから、本論文はその本をキヤリヤーにして、各国の民衆の武士道への認識を対比して、そしてその認識に対するずれを指摘するつもりだ。だから、この卒業論文を書くチャンスを利用して、武士道の精神についてもっと深く探求してみたいと思う。 www.eeelW.com 本論 第一章 武士道の定義と起源 1.1武士道の定義 武士道、字義的には、武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば「武士の掟」、すなわち武士階層の身分に伴う義務である。「武士道」は成文化された法律ではない。その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物なのである。 1.2武士道の起源と淵源 1.2.1武士道という名称の起源 武士道は平安時代に起源して、サムライの発生が次第に形成する。武士道は歴史で登場したのが大体平安中期の九世紀後半期だった。武士道というものはいろいろな言い方があって、サムライが発生した時たくさん呼ぶことがあると同じように、武士道が形成する前にさまざまな呼称があった。武士道という言葉の出現と広範に使うのは結構時間がかかった。 武士道という名称の由来について、次の古賀斌の書いた『武士道論考』のリストを見てみよう:[41]
名称 文献名 ますらむ 古事記 もののふ 万葉集 勇士の道 万葉集、士気古城再興伝来記 兵の道 今昔物語、宇治拾遺物語、水鏡、保元物語 弓箭の道 十訓抄、竹崎五郎給詞、紳書、岩淵夜話、小早川式部物語、豊薩軍記、松隣夜話、豊内記 弓矢の道 太平記、平家物語、源平盛衰記、濫尻、明徳記、鎌倉大草紙、応仁略記、小早川式部物語、岩淵夜話 弓馬の道 吾妻鏡、北条早雲寺殿二十一条、武家諸法度 武者道 信長公記 武辺道 叶隠、翁問答 侍 道 可笑記、浮世物語 当 道 義貞記 武 道 甲陽軍鑑、後太平記、平治物語、戸田氏鉄訓、武辺咄聞書、北条五代記、明良洪範、肝要工夫録、退食間話、武人訓、武備小学、明訓一組抄、告志編、集義外書、信長記 武教(武治) 武治提要 武之道 飛騨国治乱記 士之道 山鹿語類、明良洪範、資治答要、武教小学、武人訓、酒井忠進家訓、細川義元記 士 道 山鹿語類、武治提要、兵要録、武人訓、士道要論、告志編 武士の道 風雅集、今川記、常山記録、岩淵夜話、備前老人物語、虚名家記、菊池伝記、武訓、飛騨国治乱記、松のさかえ、武士訓、武学啓蒙、武教講義 武士道 加藤清正七条、甲陽軍鑑、武功雑記、明良洪範、備前老人物語、太平策、鳥居元忠遺書、板倉重矩遺書、松のさかえ、叶隠、武道初心論、武学啓蒙、尚武論、士道要論、明訓一組抄、武教講義
このグラフを見ると、武士道という名称の由来には歴史があるということが分かる。武士道が発展しつつあり、時代の発展につれて、意味も違ってくるのである。だから、武士道の内容と精神がきっと一致していないないし。武士道についての理解もそれぞれの時代が違うと思う。 1.2.2武士道の淵源 武士道は仏教と神道と深い関係がある。まず仏教だ。運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤しみ死を親しむ心、仏教は武士道に対してこれらを寄与した。[42] 武士道の拠り所の一つは仏教である。仏教は運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感などを与えた。もう一つは神道である。神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などを武士道にもたらした。仏教の与えられないものを、神道が豊かに供給した。神道の教義には、愛国心および忠義という二つ重要なものが含まれている。仏教と神道のほかに、道徳的な教義に関しては、儒教が豊かな源泉となった。孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとってふさわしいものであり、不可欠なものでもあった。それから、孟子の思想も大きな影響を及ぼした。その人民主権的な理論は、思いやりのある武士たちに特に好まれた。孟子の理論は既存の社会秩序の破壊を招くものであるとして、その書物は長い間禁書とされてきたが、その言葉と思想は武士たちの心の中に永遠に住みつくようになった。仏教の与え得ざりしものを、神道が豊かに供給した。神道の教義には、愛国心および忠義という二つ重要なものが含まれている。
第二章 武士道の特性と訓育 2.1新渡戸稲造の書いた『武士道』[43] 以前、武士道についての理論はなかった。1898年に、アメリカ滞在中の新渡戸稲造が『武士道』という本を書いた。当時、ちょうど日清戦争に勝った日本に対して、海外の関心が強まっていたときだ。新渡戸稲造[44]は米国で妻や友人から日本についていろいろ質問されるようになる。それに答えようと英語で書いて、一八九九(明治三十二年)に出版されたのは『武士道』だった。その本の冒頭に、ベルギーの学者から「日本には宗教教育がない。どうやって道徳を教えているのか」と聞かれたとある。欧米ではキリスト教が大きな役割を果たしているけれど、日本にはない。そこで、新渡戸稲造は、日本の精神的土壌を形成しているものとして武士道を提起したわけだ。 新渡戸稲造の書いた『武士道』の中で、このような段落がある。『約十年前、私はベルギーの法学大家故ド·ラウレー氏の歓待を受け、その許で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を留め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見出したのである。』[45] 渡戸稲造が世界に紹介した武士道は現在、人々の武士道への認識でもある。その本は歴史的な意味がある。この本を通じて、武士道を系統化、理論化されたわけだ。 では武士道とは一体どのようなものなのか?筆者はその本を読んで、次のようにまとめてみた。 2.2 武士道の特性 ①名誉 「名誉」は、幼児の頃から教え込まれ、侍の特色の一つである。武士の子供は「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で、その振る舞いを矯正されてきた。「名誉」という言葉自体はあまり使われなかったが、その意味は「名」「面目」「外聞」などの言葉で表現されてきた。名誉は武士階級の特権を支える精神的な支柱の一つであった。 ②忠義 忠義の観念は、個人主義思想の西洋と武士道が育った日本では幾分異なっている。西洋の場合、父と子、夫と妻という家族関係の間柄にも、それぞれ個別の利害関係があることを認めていた。この思想の下では、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。個々に権利が認められると同時に、責任が負わされるためである。武士道の場合、一族の利害と一族を形成する個々の利害は一体のものであった。この、侍の一族による忠義が、武士の忠誠心に最も重みを帯びさせているものである。ある個人に対する忠誠心は、侍に限ったものではなく、あらゆる種類の人々に存在するものである。武士道では、個人よりもまず国が存在する。つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくる、という考えである。換言すれば、個人は国家のために生き、そして国家のために死なねばならないのである。 ③克己 武士の教育にあたって、まず第一に重要とされたことは、武士を子供のころから品性を高めることであった。武士道では、損得勘定で物事を考えない。金銭そのものさえ忌み嫌い、むしろ足りないことを誇りに感じていた。お金を貯めることもせず、理財に長けることなどは嫌うべきものであった。豪奢な生活は、人格の形成に大きな影響を及ぼす最大の脅威だと考えられていた。そのため、武士には厳格で質素な生活が要求されたのである。貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。 2.3 武士道の訓育 ①義 「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。つまり「義」とは、人が歩むべき正しい、真っ直ぐな、狭い道なのである。幕末の尊攘派の武士・真木和泉守(筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃)は、義について以下のように語っている。「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。(中略)されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」だから、義は武士道精神のもっとも重要な訓育。 ②勇 勇とは、心の穏やかな平静さによって表現されるものである。孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と言っている。肯定的に言い換えると「勇気とは正しいことをすることである」となる。そして、「勇」は「義」によって発動されるものである。勇猛果敢な行為が動的表現であるとすれば、落ち着きが静的表現となる。真に勇気のある人は、常に落ち着いており、何事によっても心の平静さを失うことはない。危険や死を目前にしても平静さを保つ人や詩を吟じる人は尊敬される。その心の広さが、その人の器の大きさなのである。だから、勇はサムライの基本の特性。勇は武士として、不可欠なものだ。 ③仁 「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心である。それは「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるものである。「仁」は人間の徳の中で至高のものである。孟子は「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」と言い、「仁」が王者の徳として必要不可欠なものであることを説いた。「仁」は優しい母のような徳である。だから、人は情に流されやすい。しかし、侍にとって「仁」があり過ぎることは歓迎できないことだった。 ④礼 「礼」とは長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまないということである。「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められる。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。品性の良さを失いたくない、という思いから発せられたならば、それは貧弱な徳だと言えるだろう。ただし、「礼」も度が過ぎることは歓迎されないことであった。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちによってものごとを行われるので、いつも優美な感受性として表れる。 ⑤誠 「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせである。武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものであった。「武士に二言はない」という有名な言葉がある。武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたことである。そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と言えるのである。 以上の武士道の特性と訓育の内容は八つの字にまとめると、義、勇、仁、礼、誠、名、忠、克となる。武士道の精華である。
第三章 武士道についての認識 3.1日本民衆の武士道についての認識 3.1.1古代社会 ①一般民衆 古代社会が、士農工商という四つの階層に分けられていた。農工商階層が被支配者として、武士道が支配者の手段だと思う。武士階層が支配者として、民衆の労働実りを奪い取って、自分が労働しない。だから、武士道に対して、一般民衆が大嫌いだ。 ②武士階層 武士階層が支配者として、武士道を一つの支配手段として美化していた。新渡戸稲造の書いた『武士道』が代表的である。新渡戸稲造自身は幕末に武士の家に生まれた。彼が武士の立場に立って、武士道をすばらしいものだと思っていた。武士道に自分の定義を注ぎ、武士道の内容を系統化、理論化した。そして武士階層全体が武士道をあがめ尊び、武士道の規範をきちんと守っている。武士道を持って、一つの支配手段とする。 3.1.2現代社会 現代社会には、士農工商という階層がもうない。けれども、武士道は一般民衆への影響が深かった。特に、企業管理の中の表現がはっきりと見て取れる。例えば、武士道の忠の観念は企業にきわめて高い結束力を持たせる。そして武士道は王陽明の「知ることと行うことが一致する」という思想を吸収して、日本の国民を実務に励ませている。また武士道の中「献身精神」は、従業員の作業の努力を促し、社員が会社のために一所懸命働くようにさせるのである。それから武士道の中の「恩返しをする」観念は従業員を常に企業の恩沢を感じさせ、さらに責任感と使命感を強めさせるのである。 3.2 日本以外の国の人の武士道についての認識 3.2.1『武士道』から知っていた武士道 日本以外のほかの国の民衆は武士道を一言で言えば素晴らしいものだと思っている。しかし、それは日本の武士道を深く理解しているからではない。むしろ武士道についての認識は全面的ではないからだと筆者が思う。なぜかというと、その民衆が武士道に接するルードは限られているからである。一つのルードは新渡戸稲造が書いた『武士道』を読むことである。もう一つのルードは、各種の武士道に関する本や映画を通して、武士道と触れ合った。しかしそういう本や映画などは歴史書ではないし、映画も作る人の考えでできたり、視聴者の好みに合わせてできたりしたものぐらいのだから。 3.2.2侵略戦争から見た武士道 武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった。では、武士道はこのまま消えてしまうのか?答えは「否」である。欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、この数十年間で様変わりした。「小さなジャップ」が弱くか細い存在でないことは、先の日清戦争の勝利で証明されている。日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。武器だけで戦争に勝てるだろうか。学問だけで勝てるだろうか。何よりも大切なものは、民族の精神であろう。維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げる原動力となった人々は、紛れもない「侍」たちであった。 「花は桜木、人は武士」と、武士がもてはやされるようになったのは、日露戦争以降だ。封建社会は終わっていたのに、なぜそんな封建社会の遺物が持ち出されたのか。それは、明治以降の天皇制国家体制のなかで、「忠君愛国」の精神を教育するためであった。軍人勅諭、教育勅語と同じように、儒教道徳を利用して天皇と国家への忠誠を生み出す。明治天皇の葬儀の日に殉死した乃木大将のような軍人像を武士と重ねていくわけだ。日本が国家主義、軍国主義へ向かっていくなかで、『武士道』も逆輸入された形で利用される。 武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。はっきりとした教義を持たないからである。しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはないだろう。西洋諸国の文化の中にも、武士道と同じような徳目が息づいているからだ。 時代が流れ、武士道はその時代と共に崩壊した。既に、その役目を終えたかのようでもある。しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができるのだ。
第四章 武士道についての認識上のずれ 4.1日本民衆の武士道についての認識上のずれ 4.1.1古代社会 古代社会に、一般の民衆が被支配者として、武士道が嫌いだった。武士道は支配者の統治手段として、一般の民衆に憎まれていた。その反対に武士道階層が支配者として、武士道がすばらしいと思っていた。その二つの極端の認識は各自の立場に立っていたからだ。 4.1.2現代社会 現代社会に、支配者と被支配者の階層がもうないから、古代社会のような極端の認識もない。その代わりに、日常生活に武士道への認識は人々と深い関係がある。特に、企業管理の中に武士道を取り入れるように積極的に利用されることもあるが、不利なところも多い。例えば、従業員が会社に対する絶対忠誠は必ずしもいいとは限らない。ひたすら会社の命令に従って、却って新しいものをつくり出す邪魔になるのである。そして、結束力が強いということは個人の意識がないということでもある。集団意識の強い反面、社員自身の意識が抹殺される。献身精神も一概にいいとはいえない、それは従業員の積極性を抹殺するからである。そしてそのような状況が長く続ければ、社会全体にもよくないと思う。 4.2日本以外の国の人の武士道についての認識のずれ 4.2.1『武士道』という本自体のずれ 新渡戸稲造が著した「武士道」は発行されて以来欧米で好んで読まれ、英語のみならずポーランド、ドイツ、ノルウェー、スペイン、ロシア、イタリアなど、多くの国の言語に翻訳されてベストセラーになったそうだ。つまり、近代以降の世界各国の人が認識した「サムライ」「武士」の姿は、ほとんど『武士道』から来たわけだ。 しかし、新渡戸稲造の書いた『武士道』の中の内容が事実ではない。資料にそって書いたわけではないから。本の中で武士の主君への忠誠や切腹を礼賛して、それを日本人全体の精神だと書いている。それは虚像として作り上げられた『武士』であって、現実とは違う。元々『武士道』という本は外国に日本独自の道徳概念を紹介することが目的であって、さらに幕末に武士の家に生まれるた新渡戸稲造は武士階層を代表し、武士の立場に立ってその本を書いたから、本の中で武士道を美化するのが理解できないこもとない。『まちがいだらけの検定合格歴史教科書』の著者、近現代史に詳しい石出法太さん[46]が次のように言った。『しかし、この本は、彼の体験から書かれたもので、歴史的な事実をふまえていない。彼には、日本史や日本の思想に対する深い造けがなかった。』その言論がしんぶん赤旗に掲載した。[47] 新渡戸稲造は幕末に武士の家に生まれる。武士階層を代表する。新渡戸稲造が武士の立場に立つ。この本は、武士の主君への忠誠や切腹を礼賛して、それを日本人全体の精神だと書いている。それは虚像として作り上げられた『武士』であって、現代とは違う。彼が著した「武士道」は欧米で好んで読まれ、英語のみならずポーランド、ドイツ、ノルウェー、スペイン、ロシア、イタリアなど、多くの国の言語に翻訳されてベストセラーになったそうだ。つまり、近代以降の世界各国が認識した「サムライ」「武士」の姿は、新渡戸「武士道」に大きく影響された、と考えることができるわけだ。 歴史的には、武士とは一所懸命、つまり一つの土地に命をかけるのであって、主君にかけるのではない。ですから、主君に対する裏切りなどは、戦国時代までは当たり前だった。 それを主従関係で縛るようになるのは、江戸時代に儒教が正式な学問として武士の道徳とさてからだ。ここに描かれている武士道は、江戸時代以降、とくに明治時代以降に強調された儒教道徳に負うところが大きいのだ。 武士は戦闘者だ。それが江戸時代に入ると、武力を行使する必要がなくなる。支配者としては、武力を行使されると、かえって困ってしまう。 結局、文治政治へと移っていく。武士もサラリーマン化していく。そういうなかで、一部の武士から「戦闘者としての精神を忘れてはいけない」と、武士道という言葉が出てきたわけだ。 4.2.2侵略戦争爆発後武士道に伝の認識上のずれ 第二次世界戦争の爆発後、世界の人々特に被害国の人々は日本の武士道をとても憎んでいた。戦争は確かに残酷で憎憎しいが、それを全部武士道が悪事の元凶だと思うのが一面的だと思う。各国の民衆は戦争の影響を受けて、客観的に武士道を認識できなかったが、本当は武士道は利用されただけだと思う。 神道、仏教、儒学および神の権威の盲信するから日本の武士道は、 三大発展段階を経験して、 つまり江戸時代前の古い型の武士道、江戸の時代の新型の武士道と明治の維新の後で近代の軍人精神の武士道に転化します。[48] 侵略戦争は武士道を利用して、反動の方向へ偏向した。そして、その武士道は本当の武士道ではない。各国の民衆は戦争の影響を受けて、客観的に武士道を認識ではなかった。だから、その認識は本当の武士道とすれ違いがある。侵略戦争は残酷だが、人々は必ず客観的な立場を立って本当の武士道を認識しない。 中国侵略戦争と太平洋の戦争の元凶は日本の軍国主義のファッショだ。日本の軍国主義、1868年から明治維新の後で形成して発展する日本の軍国主義、 ファシズム、 日本の帝国主義が全面的な危機の時期に軍国主義の極限に達している振る舞いに陥るのだ。 ファッショは武士道と深い関係がある。近代の日本の軍国主義の源は古代中世の日本のサムライおよび武士道であった。明治維新の後で近代の軍人精神が武士道に転化して日本の軍国主義の主要な構成部分となる。人類の数千年の歴史の上で、ただ武士道がみごとに主君に対する“忠実”と君のために生命を惜しまずという観念に軍隊を武装した。軍国主義に支配された武士道は、 国内で精神のツールにして、 日本の国民の思想をひどく制御し; 対外でアジアの各国を侵略する道に足を踏み入れた。そこから日本の近現代史の舞台で武士道は好戦的で、 戦争のためにサービスする罪悪の幕開きをした。台湾を占領して、 琉球、朝鮮を併呑して、 中国を侵略して、太平洋戦争を引き起こして、 日本の軍国主義の徹底的なファッショ化。武士道はファッショの軍国主義の戦争政策に利用されて、 ファッショ軍国主義にサービスするため、 武士道精神は戦争とファッショにサービスする道に沿って落ちれば落ちるほど深くなった。 日本の国民に対外侵略戦争を“皇国”の“聖戦”と見なして、強制的に軍隊に入れられることを栄にして、 自らの意志で“神の風”のメンバーになって、“特に研究する”のメンバーをして、 肉弾が自殺性進撃を行う。武士道精神は日本民族に戦争の災難をもたらし、 数百万の罪のない日本の青年を丸飲みにしたと同時に、アジアの人民と中国人民にもっと巨大的深刻な災難をもたらした。 4.3 筆者なりの武士道についての認識 世の中には非の打ち所の一つもないものはない。武士道についても簡単な一言でいいとか悪いとか断言するのではなく、両面があるという観点から見なければならない。 神道、仏教、儒学および神の権威の盲信するから日本の武士道は、 三大発展段階を経験した。 つまり江戸時代前の古い型の武士道、江戸の時代の新型の武士道と明治維新の後で近代の軍人精神に転化した武士道である。[49]もともと武士は一所懸命、つまり一つの土地に命をかけるのであって、主君にかけるのではない。だから、主君に対する裏切りなどは、戦国時代までは当たり前だった。 それを主従関係で縛るようになるのは、江戸時代に儒教が正式な学問として武士の道徳とさてからであった。江戸時代以降、とくに明治時代以降の武士道は強調された儒教道徳に負うところが大きいのである。武士は戦闘者だ。それが江戸時代に入ると、武力を行使する必要がなくなる。支配者としては、武力を行使されると、かえって困ってしまう。結局、文治政治へと移っていく。武士もサラリーマン化していく。そういうなかで、一部の武士から「戦闘者としての精神を忘れてはいけない」と、武士道という言葉が出てきたわけだ。 侵略戦争で武士道は元凶のように見えたが、実は武士道はただ軍国主義に利用されて、反動の方向へ偏向したのだ。
結論 武士道は神の道教、仏教、陽明学から生まれた。神の道教の中から、武士道は主君に忠実して、祖先を尊敬するのを得た。仏教の禅宗から、落ち着き、沈着、死を恐れないのを得た。儒学の中から、五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目五倫を得た、つまり:父子の親、. 君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信である。 『武士道』という本は確かにすばらしいと思う。しかし、その内容の真実は研究するに値する。 新渡戸稲造の書いた『武士道』は本来の武士道とは一致していない。実は、江戸時代前に、主に個人の誉れと一族の名誉をあがめ尊んで、個人の実力を重んじて、上に対する忠誠をあがめ尊びない。つまり目下の人が目上の人を抵抗することを流行している。個人と一族の政治の威信を高めて、典型的で代表性のあるのは利尊の氏、賢明な光秀に足りるのだ。 時代にわたって、武士道が変化する。江戸時代になると、幕府は社会を支配するために、多い武家の法規を制定する。たくさんの仏教の思想を吸収して、教養(天命をつける、忠誠心と孝行心を尽くす、人情を重んじると言う)を含んで、当組、主君に忠義を尽くして、主君に忠実で、一家を顧みないで、恩返しをして、自分の欲望に打ち勝って、逆境に直面するのは動揺しない。内のある修行を持って、サムライ階級の人倫の道を安定する。外在する上にも、厳格に取り締まる方法で上に尊敬されない行為を制限する。社会を平和と安定の方向に引く。 だから、武士道の精神は元々ただ自分と自分の家族の栄誉のために戦うのである。
謝辞 本論文の作成に当たり、匡亜鳳先生をはじめ、日本語科の先生の方々にいろいろとご指導、ご高配をいただきました。多くのご指教のおかげで、本論文も無事完成の日を迎えました。このことは、筆者にとり無上の喜びとするところであります。改めて、匡亜鳳先生をはじめとする日本語科の先生の方々に、深甚の謝意を表します。先生達のご指導を本当にありがとうございました。今後も武士道について研究を続ける。新しい収穫を希望する。
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